虚ろに恋して落ちてって

日記を更新する。

今回は仏教のことについて。

なんつーか、ブラウザバックされてもしょうがないよなぁ。

哲学の話より遥かに仏教の話がタチが悪いと思っている。

興味ないのはそれはそうだろうけれど、応用すら効かないし、そもそも知ったことではない話なのかもしれない。

ただまぁ、ここは日記だから(伏目)。

今回は、仏教という無意味な宗教というかなんというか、仏教研究について書いていく。

仏教と言えども学問の対象足りうるらしくて、色な研究自体はある。

あるのだけれど、その研究の全ては無意味だと個人的に考えている。

もっと具体的に言うと、彼ら仏教を研究する人は、どんなに時間をかけたとしても、事実にはたどり着けないと僕は理解している。

何故と言えば、仏教の研究家はみな仏教徒だから。

仏教徒なんだから、仏教徒として望ましい事柄しか、答えとして受け入れない。

それ以外はどうでもいい事柄だからしょうがないと言えばしょうがないのだけれど。

彼らは仏陀さんの教えを深く知りたくて仏典を研究する。

その動機は別に間違っているとか言うつもりはないけれど、その動機じゃあいつまで経っても事実にはたどり着けない。

もしかしたら、真実にはたどり着けるのかもしれないけれどね。

真実という言葉について、僕はその言葉を検討してみた。

以前書いたように言葉というものは使っている人それぞれ、さらに言えば同じ人でもタイミングによって意味合いは変わるのだけれど、少なくとも真実という言葉を使う人に限っては、自分にとって都合のいい解釈のことを指して真実と呼んでいる場合が非常に多いと分かった。

だから、きっと僕は真実というものは彼らが望んだ、事実を婉曲させた言葉遊びの末に出てくる信仰の搾りかすか何かなのだろうなと思う。

僕は信仰心の一切がない。

でもそんな人は仏教の研究者の中にどれくらいいるだろうか。

きっといないのではないかと思う。

そうであるとしたならば、彼らの研究は色と事実を指示しようがないというのが実際で、彼らはきっといつまでたっても事実にはたどり着けないのだろうなと僕は思う。

結局、どんな研究者が居るのかは知らないけれど、普通に考えていかれているとしか思えない記述内容であったとしても、偉い偉いお釈迦さまや、偉い偉い龍樹さまのお言葉だからという理由でなあなあで済ます。

それに加えて色あって、結局研究をするにあたって、偏見というかなんというか、お約束事みたいなものを束縛として存在する。

インドの世界観は終わりもなければ始まりもない世界と言われている。

西洋的なキリスト教的な世界観だと、光あれという始まりがあって、最後の審判という終わりがあるのだろうけれど、インドでは円環のようにグルグルグルグル。

始まりもなく終わりもなく今もなく、円環の奇妙な時間の中でグルグルと。

時間感覚が僕らとは違うとかなんとか。

そういう事柄は通説として語られている。

で、実際僕は数は少ないけれど、仏典を読んでみている。

すると分かることがあって、書いたのはやはり人間でしかないということ。

僕らとあんまり変わらない人間が書いている。

少し持っている文化が違うだけで、やっぱり基本的に人間でしかない。

自分の身内の事柄は褒めたたえるし、そうではない相手のことは徹底的に馬鹿にする。

近世哲学のミルだってやっていることだし、僕らの日常の中にありふれた出来事だ。

自分の仲間内は何処か優れていると考えて、その集団から離れて且つ、劣っていると認識できる何かがある集団があったならばそれを酷く蔑ろにする。

僕は仏典を書いた人がそれをやっているのを何度も何度も見た。

護国尊者所問経は大乗仏典というカテゴライズがされて、小乗仏典より新しく成立した文章なのだけれど、ひたすらに小乗派の人がどれ程劣っているかを書きつくっていた。

沙門果経では六師外道と呼ばれる六人の異教徒の集団の長の教えが如何に間違っているかが語られ、仏教の教えが如何に素晴らしいかが述べられる。

それらは間違っている間違っていないという価値判断ではなくて、自分の敵か味方かという価値判断のみにおいてそう言及されているに過ぎない。

安部政治を許さない人だったならば、安部氏の一挙手一投足の全てが許せない。

実際にどうであるかだなんて関係ない。

丁度昨日、そういう人たちの街宣車が走っていたのだけれど、放射能のことを安部氏のせいだと糾弾していた。

放射能が安部のせいとはたまげたなぁ。

結局、敵か味方かということが価値判断に与えている。

仏典を書いた人も同じことをしていた。

つまり、書いたのは僕らと同じ人間だということ。

だから、円環のようにグルグルグルグルという世界観が仏教というかインドの世界観だという説明があるのだけれど、実際はそんなことは全然ない。

いや、読めば全然そんな様子はないというか、ジャーカタとか一部そういう風に輪廻する話はあるのだけれど、だからって始まりも終わりもないということは一切ない。

だって、仏陀は徳を積んで畜生の一生を何度も何度も繰り返して、ゴーダマシッダールタの時点で解脱したって設定なんだから、輪廻を重ねるうちにちょっとずつ前に進んでいるわけであって、ちゃんと僕らと同じように時計の針は前に進むような価値観を持っている。

輪廻転生の発想はあるけれど、世界の時間は僕らと同じように進んでいる。

終わりもなければ始まりもないという話なのだけれど、大乗仏教にはなんつーか、弥勒菩薩が居る。

弥勒菩薩ってのは、良く分かんないけど僕らの生きている時代のずっとずっと後の時代に、仏陀のように解脱することが予言されている菩薩になる。

つまり、普通に未来がある。

だから通説である円環の世界観ははっきり言って嘘でしかない。

過去も現在もないんだったら、未来に登場する人物はあり得ない。

誰が言い出したのか知らないしいや、多分ゴンダ辺りなのだろうけれど、そんな事実は存在していないと、僕が今まで読んだ程度の内容ではそうであるとは語れない。

でも、それを大学などの研究機関でやるとしたならば、そういう風に言えるのかというのが問題で、言えないし、気付かないんじゃないかなと僕は思う。

もっと言えば、恐らくそのことに気づいてもなあなあで済ますんじゃないかなって。

だって、普通に考えてさ、物理的にあり得ないことしか仏典には書かれていない。

人間には瞬間移動は出来ないのに仏陀はしていて、人間には未来のことは分からないのに予言していて、人間には水の上を歩けないのに水の上を歩いてさ、普通に考えてそんなのは創作でしかないのだけれど、お釈迦様の有り難い教えだからということそのことは問題にされない。

そんなあり得ないことが問題にされてない業界なのだから、色なことがなあなあで済まされていると僕は推測している。

というか、もし僕自身が仏教徒としてそのようなことを問題にするような人物と一緒に研究することを想像したならば、ただの煩わしい話の分からないやつとしか理解できないと思う。

そんなことは分かっている。全然重要な問題じゃない。

きっとそういう風に思っているのだけれど、実際問題として重要な問題だ。

何故?

何故あんな荒唐無稽の話を重要なことだと判断するの?

何故、ただの哺乳類に死んだ後のことが分かるの?

何故、ある人物の前世がオウムであるという事実を、物理的に知りようがない事実を、仏教的な伝統がない世界では存在しない与太話を、そのことがホラであると判断しないの?

僕にはまるで分らない。

彼らの信仰心はそういうことを問題にしない。

死後の世界?

なぜあなたはそのことを知っているの?

どうやって知ったの?

人間には知りようがないし、知っていると言っている人の言葉は嘘でしかない。

でも彼らは問題にしない。

きっと、彼らは真実にはたどり着けると思うけれど、けれども、いつまで経っても事実は認識されることはない。

僕は、仏教というか仏典というものを理解するのに、実際的な視点しか考慮しない。

つまり、そのことを書いたのは人間でしかないということ。

僕らとあまり変わらない人間。

電車に揺られて新聞を読んでいるおっさん、スマホをいじっている学生、つり革を掴んだまま寝ているOL、それらと仏典を書いた人が大差ないというどうしようもない事実。

それしか僕の視点にはない。

そうであるとしたら、いや、そうでしかないのだから、そうであるということはどういうことかを考える。

もし、熱心に追いかけているなにがしかがあったなら。

もし、心を囚われる何かがあったなら。

実際問題として、どうも僕の何かを読んだらしい人のブログを読んだことがある。

読んでみて目にしたのは、僕の書いた何かの模倣だった。

僕がやったようなやり方で、ロリコンということがどういうことかを論証していた。

つまり、なんらか心をとらえたとしたならば、自分もそのことをやってみたくなるというのが実際らしい。

実際、ゲームをするのがすごく好きだった人が、実際にゲームを作ることになった例を二例ほど知っている。

好きなことがあって、それに何度も触れて、それが好きならば自分も作りたくなるというのが人間的な在りかたというらしい。

漫画を好きな誰かは、漫画家を目指す。

小説が好きならば、自分も書いてみたくなる。

僕だって、RTAというゲームのタイムアタック動画をたくさん見るのだけれど、それを見ていると自分もやりたくなってきてしまう。

仏教のテキストを書いた人も全く同じだろうと、絶対に仏教徒は考えない。

でも、何故そうではないと、心酔した誰かが自分も書いてみたくなったと判断しないのか。

そうであるとしか判断できない。

だからあんなテキストは、究極的にファンの二次創作でしかない。

別にそれはそれでいいと思うし、それが面白かったなら僕は良いと思う。

でも、そこに生きていくための真理が書かれているのか?

何故書かれていると説明できる?

ファンの二次創作だぞ?

意味が分からない。

ファンの二次創作の何処に、世界のその全ての答えが構築され得るのか。

仏教のテキストは所詮はファンの二次創作なのだから、この文章書いた人は何を考えていたかを考える時には、好きな何がある人が、自分もやってみたくなった時にどのような振る舞いをするのかということしかテキストの理解で重要になることはない。

どんなことだろうか。

やってみたくなったのが物語を自分も作ることだとして、元の話の主人公が強くたくましいかったならば、彼が描く二次創作もその主人公が戦う内容になるのだろうか。

主人公がとてつもなく優れている人物ならば、ひょっとしたら空を飛ぶ能力を身に着けたりするのだろうか。

瞬間移動だって出来りするかもな。

まるで観無量寿経仏陀がそうしたように。

仏典なんてこのレベル。

僕はこれを揺るぎない事実だと考えている。

僕は物事について、それは反証がなければ正しいと理解している。

僕は仏典がファンの二次創作であるという事柄について、どうも反証を導き出せない。

仏典を漫画やアニメやゲームと同列に扱ったけれど、実際世界中で尊敬する誰かの本は同じように真似されている。

儒教のテキストは、論語辺り以外は全て後世の創作だ。

孝経大学中庸などは読んだけれど、孔子自身が言っていないようなことが言及されている。

荘子のテキストには、そのような儒教の理解があって初めて成立するような文章が混入している。

後世の道教の信徒が書いた何かが混入したらしい。

史記という中国の歴史書には、作者である司馬遷の文章ではない文章がいくつか混じっている。

史記はクッソ激烈に面白いから、自分も書きたくなったんだろうな、って。

管子のテキストには、管子って人の後世の創作でしかない問答が収録されている。

プラトンのテキストには偽書が存在する。

いくつか偽書であると明らかになっている本があって、その本は研究者がだからやしたがってなどの接続詞について、プラトンが書いたと分かっている文章から検出して、統計を取って轍にはまらない文章を後世の偽書だと判断する方法で除いたそうだ。

つまり、世界中で普遍的に起きているようなことが、後世のファンの二次創作だということ。

別に漫画アニメだけではない。

仏教のテキストとて同じ。

ファンの二次創作だ。

時他の作品のキャラも入れちゃったりする。

メアリースーとかも似たようなものなのだろうけれど。

弥勒菩薩って言うのは、本来的にミトラ教の主神になる。

ミトラ教っていうのは、キリスト教が入ってるまでのローマの国教になる。

クリスマスってあるけれど、あれは別にイエスの誕生日ではない。

あれは普通にミトラ教における夏至のお祭りのことでしかない。

弥勒のはパーリ語でメッティーヤだそうだから、ミトラという言葉が由来になる。

というか、キリスト教のメシアもこの言葉が元だから、あのあたりで当時流行ってたんでしょうね。

検討するならば、当時の人が何を考えていて、反面、何を考えていなかったかになる。

当時、ミトラ教の話が行きかうようにあったから、そのことをつい仏教に取り入れてしまった。

きっと、当時の人はそのようなことをしたのだろうということ。

そのことを考えるにはミームという概念の研究が役に立つと思うけれど、僕は詳しくないから何とも。

実際、中国の道教の陰陽の教えは記憶があいまいだけれど老子荘子のテキストでは重要ではないというか、それほど書いてあった記憶がない。

言及自体は荘子に少しだけあったのだけれど、荘子の本旨はひたすらに自然体で、心を捨てて世界と一体化するということになる。

陰陽の発想は重要ではなかった。

恐らく、元はゾロアスター教の教えである善と悪という二項対立が初出だと思う。

それが中国まで来てよく聞く陰陽の教えになる。

研究するならば、そこに真実の教えがあるとかないとかではなくて、どのようなミーム、すなわち情報の入れ替わりが起きたのかということをやったほうがよっぽど事実に近づける。

何せ、仏教のテキストはファンの二次創作でしかないのだから、そんなものに心を預けても滑稽でしかない。

僕には滑稽に見えるけれど、研究者はクソ真面目にやってあのザマなんだろうなと思う。

そして、研究者として僕が存在したならば、そんなことを心に抱いても、口には出せないし、本にも書けない。

そうやって周りのことに気を使っているうちに、いつの間にか自分の考え自体も変わっていくだろうなと思う。

彼らはきっと真実にはたどり着けると思う。

それは脳内でどうでもいいただの情報を真理と誤認識しただけのただの勘違いなのだけれど、そんなことは彼にとっては問題ではないのだから、彼はきっと真実にたどり着いたのだと思う。

薬物中毒者が俺は神を見たと吹聴することとの違いの一切を僕は説明できないけれど。

彼らは真実にたどり着いたとしても、ただある事実には目が向かない。

でもそれでいいと思う。

彼らが幸せなら、別に僕には関係ない。

けれども、だからと言って間違っていることが正しくなることもないのであって、僕はそれを指摘しているに過ぎない。

それだけのこと。

良いと思うよ。

好きにすれば。

という日記。

色酷いっすね。

こういう風に悪し様には絶対に言えないから、結局なあなあで済ますしか、実際を生きる上では出来ないんだよなぁ。

研究者とかになったら、それでおまんま食っててるんだから、干されたら生きていけない。

周りに気を遣うしかないわけであって、もしかしたら自分自身が気をつかわれている方であるかもしれない。

そこら辺は哲学も一緒だな。

頭お花畑の人多かったもの。

でもその話は気の知れた友人同士でしかできなかった。

同僚だったらなあなあで済ますよね。

色しょうがないと思う。

ではまた。